正法寺

正法寺椀
正法寺椀®
登録商標
正法寺椀はこの寺に古くから伝わる器で、昔は江刺郡の名産品といわれていました。寺伝では秀衡塗や会津塗の系列に入り、正平年間(1346〜1370年)につくられていたとされます。
仙臺伊達藩第四代藩主 伊達綱村公(1659〜1719年)の命で編纂された、全20巻に及ぶ仙臺藩の地誌『奥羽観蹟聞老志』(1719年)。命を受けた仙臺藩の儒学者、佐久間洞巌(1653~1736年)によって著されたこの本の中で「江刺郡黒石の奥州総本山正法寺で自家用の什器を製作」と記述されており、これは正法寺椀の事であるとも考えられます。
當山で保管される現存のオリジナル正法寺椀(通常一般非公開)は5口のみ。高さ7.7cm、直径14.2cm、下部がややすぼまった形状のもので底部に「正法寺」と朱漆で書かれているものが1口。残りの4口はいずれも普通の形の椀で、高さ4.9cm、直径14.2cmのものです。
平成10年、黒石地区振興会により発行された『黒石史誌』の中での説明では、「なめらかな縁の美しさと模様のない黒塗りが特徴、椀の外側に薄い麻布が張られ、その上に漆を塗っている。年代的には秀衡わんよりも新しいが、独特な形、漆の塗り、木地のとり方など、高度な技術がとられている」と記述されています。
禪寺では僧侶の用いる食器を「応量器」と呼び、正法寺椀はこの寺独自の応量器とも考えられております。
當山第五十五世山主であり、後に大本山總持寺 独住第二十二世 大環正応禪師となる成田芳髓老師は、正法寺椀復活のため岩手県工業試験場や市内の文秀堂株式会社と連携し、昭和63年に約100年ぶりに正法寺椀は製造再開となりました。当初は増沢塗の里「増沢地区」(現 岩手県奥州市胆沢)出身の塗師に復元を依頼・製作しました。古くから増沢地区は、奥羽山脈越えの山道である、仙北街道を軸とした仙臺藩と久保田藩(秋田藩)を結ぶ交通の要衝でした。他にも下嵐江地区(現 岩手県奥州市胆沢)から増沢地区を結ぶルートには、1,000年以上も前から稲川町(現 秋田県湯沢市)の川連地区と増沢地区が漆技術の交流を図ったとされているルート、通称“うるしの道”が存在していました。その後、正法寺椀製造塗師の逝去とともに正法寺椀の製造は再び断絶しました。
現在、正法寺椀の復元を担っているのは、川連漆器で有名な秋田県湯沢市川連町にある丸利漆工所。古くより伝えられてきた、この地域の漆文化の背景を元に、現在も正法寺椀の製作は受け継がれています。
オリジナルを復元したこの器の特性は、一般的な高台のある椀類と趣を異にした形の三つ組椀であることです。両手で持った時の感触は名碗としての実感を抱かずにはいられません。その使い勝手の良さと素朴な味わいは“用の美”そのものであります。
現在も當山では、参拝者に振舞われる精進料理にこの正法寺椀を使用しています。
正法寺椀は宗教法人 正法寺の登録商標です